70年後の話をしよう

僕がこの世に生まれて30年余りが経つ頃、人生100年時代と言われるようになり、且つての人間の寿命と言われた25年間の一生の4倍にも及ぶ人生を考えるようになった。

やがて僕たちは最後の時を迎えて、この世での総決算を迎える。それはすべての人に平等に訪れて、逃れることも先延ばしにすることも出来ない宿命である。

僕たちは良い生き方をしたい。と、この世での人生にばかり目を向けてきた。しかし、この世という何かを特定した存在の裏側には対立するものの存在を明らかにしている。それは陰と陽の関係のように、影があるのは陽があるからであるという密接な関わりの中で示される。

それは、この世という世界の裏側にあの世というものの存在がある事を肯定しているのだ。人の良し悪し、勝負の勝ち負けにおいても同じことが言える。勝つ人がいるということは、負ける人がいるわけであり、負ける人が居なければ勝つ人もいないということで他ならない。

だとすると、生きるこの世というものが存在するのであれば、死後のあの世というものが存在するということも、認めざるおえない。

生き方というものが重要視されるのであれば、死に方というのも重要視されるのであるが、死に方というのは、この世には及ばずその先の未来のために意識すべきことなのである。

立つ鳥跡を濁さず。という言葉は去り際の死に方の美しさを言うのである。濁すというのは、未練を、悔いを遺すということであり、「やり残したこと」を指すのである。

ひとつ釘を刺すとすると、生き方と死に方は別々のものではなく、表と裏、表裏一体なのである。それは生き方こそが死に方であり、死に方こそが生き様なのである。

表と裏の一体、生き方と死に方の一体。それはこの世とあの世の一体を意味し、生きていても死んでいても存在するのである。

姿の有無に捉われないのである。

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