哲学、それは人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観。とGoogleで出て来ました。
今日は私が密かに考える、哲学とまで言えるかわかりませんが普段から感じていることを綴りたいと思います。*自分の頭の中を整理するためのただのアウトプットですので悪しからず。(笑)
本題
今自分が生きている世界を“この世”という表現が行われるということは、あの世というものが存在していて、この世に存在する自分と、将来あの世に存在する自分がある。
死んだ時にあの世に持っていけるものと、この世に置いていかなくてはいけないものがあります。その、あの世に持っていけないものは自分のものではなく、この世での人生を送る上で一時的に利用させて頂いているもの、借りているもの、預かっているものと考えます。
あの世に持っていけない代表的なものとして、身体、能力(才能)、モノ、お金があげられます。あの世に持っていけるものはたった一つで魂すなわち、心だけです。
本来私たちは魂(心)と呼ばれるもので、目に見えないものであったが、この世に降り立つ時に身体を借りて人生を過ごしていくのです。
最初の魂(心)の色は白です。
魂(心)の成長または劣化は色によって表され、白と黒を基準として、息を引き取ると同時に身体から魂(心)が抜けて天に帰っていく。天に変えればその色を評価され、いわゆる天国と地獄のどちらにいくのか判断される。
私たちは人生を歩んで行く中で、この魂(心)の色をどれだけ白を保てたか。若しくはどれだけ白に近づけることが出来たのか。それを目標としなくてはいけません。
更に、若干話の角度は変わりますが、この世で借りている、預かっている、利用しているモノ(身体・能力(才能)・お金)を借り物として、預かりものとして、利用させて頂いている立場を理解して使用したか。まさか、借り物、預かり物、利用させて頂いている自分のものでは無いモノを、自分のモノだと勘違いをした使い方をしなかったか。
それも天秤にかけられ判断されるのではないか? そう考える様になりました。物理的な話で、もしそれも全て自分のモノだとするのであれば、あの世にも持っていることが許されるわけですが、そうはいかない。と、いうことは自分のモノの様に見えるだけで、自分のモノではないから。と、いうことが理屈として通る様な気がします。
では、その自分のモノに見えて実は自分のモノではないモノたち。それをどの様に使用するのか。すごくわかりやすく言うと、「人から借りたものを大切に扱ったか」と、いうことです。
ここで定義する「大切に扱う」とは、人の為にも使ったか。と、いうことです。
完
コメントを残す